アンチ・ラブ・ハラスメント

 社会学というより倫理学の分野になりそうなのですが(講義名も倫理学特殊講義だし)、倫理学で一つのカテゴリを作ってもこれから使うか分からないので、便宜的に社会学にします。フェミニズム関係と言えばそうなので。と、いきなり言い訳から始まりました。
 今日の講義でラブ・ハラスメントに関する記事のコピーを読んで解説を聞いたのですが、その記事や先生の説明から僕なりに思うところがあったので書きたいと思います。
 まずラブ・ハラスメントとは何かについてメモします。講義で配られた資料によると、「恋愛をしない人に対する嫌がらせ」と定義されています。この資料では恋愛が、「恋愛感情を持つこと/カップルになること/セックスをすること」のどれかが当てはまる状態とされ、また恋愛の対象が同性・異性・その他であることは問わないとしています。そして、「恋愛をしない人」は「現在、恋愛をしていない人/恋愛をしたいと思っていない人/恋愛をしたくない人」を指すようです。さらに、その人たちに対する「嫌がらせ」というのは、「恋愛をしないことを信じない/恋愛をしないことを異常と見なす/恋愛をするよう強要する」行為としています。
 これで資料によってなされた定義は出尽くしましたが、この定義は定義として非常に弱いものと言わざるを得ません。資料ではこの定義の後、恋愛至上主義がいかに「恋愛をしない人」を傷つけ悩ませているかについて論考していますが、この定義では「恋愛しない人」が「恋愛する人」との相対的関係として、「恋愛する状態から漏れた人たち」ということになります。すなわち、恋愛至上主義を糾弾しようとすればするほど、自らの「悲惨さ」を露呈するだけになり、そこにはノスタルジックでセンチメンタルな感情ばかりが目立ってしまいます。本人たちがなそうとする恋愛至上主義批判に関して、「恋愛をしない状態」が「恋愛をする状態」の逆命題としてしか捉えられておらず、皮肉にも「恋愛をする状態」に内包される関係になってしまっているわけです。
 恋愛至上主義を批判するためには、まず「恋愛」を「恋愛」以外で定義するところから始めなければいけないと思います。このことに関しては、後ほど言及します。

 さて、ここで少し話を変えて、何故「恋愛をしない状態」が病理化するのかということを考えてみたいと思います。そもそも何事かの現象が病理化、霊化するような場合、人々の中で、一般的常識から考えて理解困難なものを容易い、既成の方法で言説化しようとする意識が働いているような気がします。これは、自分の理解範囲に取り込んで説明可能にすることで、アイデンティティ的な危機を乗り越えることと考えてもいいかもしれません。こうした言説化は、日常的に様々なところで見られます。簡単な例で言えば、妖精や妖怪。もっと具体的でよく引かれる例では、同性愛の病理化が挙げられるでしょう。
 これ自体は決して批判できる運動ではありません。ただし、言説化は既にある言説によって実践されることを考えると、いささか暴力的である場合も少なくないでしょう。ラブ・ハラスメントの問題も、突き詰めて考えれば暴力的な問題だと思われます。それがある種の人々に対して暴力を持つ場合には、意味のある批判がなされなければなりません。常識として捉えられていた事柄を社会問題化するわけです。構築主義あるいはエスノメソドロジーの立場から考えてみるなら、この言説化の過程を脱構築するところから始めることになります。以下、そのつもりで考えます。

 まず、「恋愛」を至上化しているものが何なのかを考えてみたいと思います。目的性、制度的保障性、社会性を考慮すると、ここで言われている「恋愛」は多分に「異性愛中心」的なものです*1。つまり、この「恋愛」に関して、「結婚」や「出産」といったものが無批判に合目的化されているわけです。この観点からすると、「恋愛をしない状態」というものは正に社会的に見て「逸脱行為」であり、社会の生産活動に与しないという点で病理化されることになります。資料では「恋愛の本能化」という言葉を使っていますが、もっと正確に言うなら「恋愛が社会的に本能化されている」ということになるでしょう。ここで問題とされているのは、「社会的に本能化されている」ところの「恋愛」ということになります。これはなかなかに鋭い指摘です。こうした観点からすると、ラブ・ハラスメントの問題は同性愛嫌悪やキャリア・ウーマン批判のようなものと同位相で議論できることになります。しかし、先述したように、この資料のまずいところは「恋愛しない状態」が「恋愛する状態」の逆命題としてしか定義されていないことです。つまり、恋愛するかしないかは個人の勝手、という個人の「選択」の問題に回帰してしまうということです。それでは、レズビアニズムを掲げるフェミニストと同様の陥穽にはまる可能性があります。レズビアニズムは、女性至上を極端に押し進めることで自己のセクシュアリティは「選択」次第で変えることも可能であると主張しました。しかし、レズビアンはゲイなどと同様に「選択」してその状態になるわけではありません。それはただ一見リベラルそうな顔をして、物事の本質を陳腐化するだけです。恋愛至上主義批判が恋愛するかどうかは個人の勝手という結論に至るようでは、強固に「本能化」している恋愛行為から真実逃げおおすことは不可能に近いでしょう。
 そこで、「恋愛」を定義し直す必要が出てきます。僕がそこで提案したいことは、「恋愛」を「他者に対する欲動」と定義することです。恋愛をするかどうか、セックスをするかどうかという話はとりあえず置いておいて、他者に対して欲動が働いている状態を「恋愛」とするわけです。当然、その欲動が他者に向かない人は「恋愛」をしていないことになります。asexualであるということは、「恋愛」をするなら他者に向くであろう欲動を、全て自己回収、あるいはファンタジー化できてしまうということです。これは「社会的本能」とは異なる次元での話になります。この欲動の動きに注目するのであれば、「本能化している恋愛」を脱規範化し、「恋愛」そのものをゲーム化することも可能なのではないかと考えます。
 性を脱規範化し、恋愛をゲーム化することができるということは、一つの文化と言ってもいいかもしれません。性/愛というクリティカルとされてきたものでさえも文化化することが可能な時代になりつつあるのではないでしょうか。いや、これまでも言説化されていないところで、あるいはアングラにおいて、性/愛は十分に文化化していたと思います。ただ、それを覆い隠してあまりあるほどの強力な社会性、「性/愛の文化」を想定外とする合目的的な制度は、いまだに根強く人々の心を浸食しているものと思います。今改めて、<ツール>としての性を「発見」することが必要であり、そうすることが、無批判に合目的化され、本能化している「恋愛制度」を社会問題化し、解体する端緒となり得るでしょう。
 ここで一つ注意したいことは、少子化問題です。恋愛のゲーム化を推し進めると、保守的な人たちが社会の生産性を下げると指摘するかもしれません。しかし、恋愛のゲーム化と生産性の減衰は因果関係にはありません。なぜなら、圧倒的マジョリティは相変わらず生産活動に与しており、また生産する意欲もあるからです。性/愛を文化化することは、ただ「本能」とされ制度化されている恋愛を欲動のゲームとして捉え返し、「恋愛」にまつわる不必要な強迫観念から人々を解放するための手段です。それは決して生産活動を阻害するものとはなり得ません。それを無批判に合目的化しないというだけの話です。少子化問題は、全ての人を制度的に生産に誘導することで解決するのではなく、欲動のゲームの中で生産に関わろうとする人々に対して、より生産をサポートする制度的保障をすることで解決する問題ではないでしょうか。生産に誘導する制度を構築することは、生産とそれに付随する「恋愛」の「本能化」を助長するだけで、この緊張関係の中からは何の解決も生まれないと考えることもできると思います。

 この論考ではロマンティック・ラブへの憧れなどについての言及を敢えて避けました。しかし、広い範囲を考慮した恋愛の「仕方」のようなもの、恋愛という「夢」を考察することもまた、意味のあることだと思います。

 読んだ本、調べた内容などが少ないため、ここで書いた事柄はもしかしたら既に他の誰かが何年も前に言及しているかもしれません。ただ、僕自身が講義資料からこの考察に至ったことそれ自体は、個人的にエキセントリックでした。定義や論理の面で甘いところはたくさんありますが、一つ一つ確認しながらより考えを洗練させていければと思います。

*1:同性愛などを持ち出して一見リベラルさを出していますが、ここで言われている「恋愛」で同性愛を語ることは位相が違うので無理です。ここでは詳しく言及しません。