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- 出版社/メーカー: 日活
- 発売日: 2006/10/06
- メディア: DVD
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上映時間:81分
製作国:フランス
初公開年月:2006/04/22
R-15指定
監督:フランソワ・オゾン
製作:オリヴィエ・デルボスク
マルク・ミソニエ
脚本:フランソワ・オゾン
撮影:ジャンヌ・ラポワリー
プロダクションデザイン:カーチャ・ヴィシュコフ
衣装デザイン:パスカリーヌ・シャヴァンヌ
編集:モニカ・コールマン
出演:メルヴィル・プポー(ロマン)
ジャンヌ・モロー(ローラ)
ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ(ジャニィ)
ダニエル・デュヴァル(父)
マリー・リヴィエール(母)
クリスチャン・センゲワルト(サシャ)
ルイーズ=アン・ヒッポー(ソフィー)
アンリ・ドゥ・ロルム(医師)
ウォルター・パガノ(ブルーノ)
ウゴ・スーザン・トラベルシ(ロマン(少年時代))
写真家として成功を収めたロマンは、末期癌に冒されていた。余命3ヶ月を宣告された彼は、始め、今まで自分の周りに存在していた人、ものと縁を切り、孤独に身を置こうとする。未来ある他人の姿に苛立ち、自分でもよくわからぬまま、怒りと涙に感情を託すことしかできなかった。しかし、独り郊外に住み、静かに死を待つ祖母にだけは、自分がもうすぐ死を向かえることを告げる。これを機に、彼は自分の存在証明を、そして死に場所を求めて彷徨い始める。
この作品は、自らもホモセクシュアルであるフランソワ・オゾンが、その切実な想いを映像化したものとして考えることができるだろう。主人公であるロマンはゲイであり、様々な環境、圧力に晒されながら写真家として成功するが、さらなる飛躍に向かおうとした矢先、死を目前に突きつけられる。形を変えて現れる種々の孤独は、監督自身が敏感に感じ取っているものなのか。
「ふたりの5つの分かれ路」のときもそうであったけれど、映画の中に、普段監督が問題視しているであろう様々な出来事が、めまぐるしい程に挿入される。夫の不妊症に悩まされ、子供を作るために自分と寝てくれとロマンに懇願する女性。ゲイの恋人関係、養子の問題。ロマンが病気と知るとそれはエイズではないかと真っ先に疑い顔を曇らせる女性。親や兄弟との距離感。子供を設けて離婚してしまった女性の、複雑で壊れやすい心。ベースとなるのは、一人のゲイが確かに存在し、いかに死ぬか、という問題であると思うけれど、そのプロセスには、「凡人」には思いも寄らないようないくつもの枝葉が存在するのだ。あまりに重い。
Akira the Hustlerというゲイアーティストの「Milk」という作品の中で、次のような一節がある。
子供をつくらなくても、人は命をつないでいけると思っている。
ぼくはそう信じている。
ゲイであろうと、なんであろうと、
過ぎてきた時、
残されてきた意志や言葉や思い出や、
言葉に出来ない海や川や木々のきらめきとか、
笑い声や、涙や悔恨や、
そういったものをひっくるめて、
あとをついてくる者たちに
バトンをつなげてくことは、できるんだ。でもね、
ぼくは、いま、自分がゲイで、子供をつくらないのかもしれないなあ、
ということに、一度きちんと絶望してみたい。崖っぷちっていうのとは違うかもしれないけれど、
なんてんだろ?明るくのぺーっとした悲しい平野のような場所に出て、
そこからもう一度、なんとかハッピーにやってける歩き方をみつけてみたい。
オゾン監督の作品にも、この考えが通底しているように感じる。増して死にゆく人間であるロマンは、自分の人生そのものにさえ絶望しかけている。祖母と話した彼は、いかにハッピーに死ぬか、いかに絶望を転嫁して死ぬか、ということだけを考えていたのではなかろうか。作品の重点は、ここに集約する。
しかし、映画としてこの作品を振り返ると、多分に「オナニー的」であることは否めない。映画にするにあたって必要であると思われる、問題との距離感が無さ過ぎる。自分の中では切実な問題であり、それを描き切ったと思っていても、観る者の言語で語ってやらねば思考が追いついていかない。映画として多くの者に感じさせたいのであればなおさらである。しかも、この作品はドキュメンタリーではない。下手すると、当事者であるはずのゲイにまで疎まれかねない(現におすぎはこの作品に心底がっかりしている)。オゾン監督の中では、最後の死に際に全てが昇華された様を凝縮したつもりなのかもしれないけれど、作品から受ける印象、観る者に残る印象は、圧倒的な暗さである。それでいいのかと勘ぐってしまう。
恐らくオゾン監督は、この作品を今撮ることに意義を感じていたのだろう。分かってもらえなくてもいい、その「美しさ」、現在性を、何としてでも画にしておきたかったのだ。アルモドバル監督の「バッド・エデュケーション」や、ジョナサン・デミ監督の「フィラデルフィア」のような距離感が無いのは、そうした切迫感が反映されているからではなかろうか。確かに、映像はどこまでも美しい。監督の中では、映画として面白いかどうかとは関係のない感情が、この作品を撮る原動力となっていたのだ。そうした意思は映画以外のジャンルでも、巨匠と呼ばれる人の作品でもよく見られる。この観点からすれば、作品の「つまらなさ」とはまた別の次元で評価し直すことが必要であろう。
映像センスはやはりいいので、そういう意味ではとても楽しめます。ジャンヌ・モローやダニエル・デュヴァルの存在感も素晴らしい。