ソウ2 DTSエディション [DVD]

ソウ2 DTSエディション [DVD]

<補足作品情報>
監督:ダーレン・リン・バウズマン Darren Lynn Bousman
製作:マーク・バーグ Mark Burg
   グレッグ・ホフマン Gregg Hoffman
   オーレン・クールズ Oren Koules
製作総指揮:ジェームズ・ワン James Wan
      リー・ワネル Leigh Whannell
      ピーター・ブロック Peter Block
      ジェイソン・コンスタンティン Jason Constantine
      ステイシー・テストロ Stacey Testro
脚本:ダーレン・リン・バウズマン Darren Lynn Bousman
   リー・ワネル Leigh Whannell
撮影:デヴィッド・A・アームストロング David A. Armstrong
   キット・ホイットモア Kit Whitmore
プロダクションデザイン:デヴィッド・ハックル David Hackl
編集:ケヴィン・グルタート Kevin Greutert
 
出演:ドニー・ウォールバーグ Donnie Wahlberg エリック・マシューズ
   ショウニー・スミス Shawnee Smith アマンダ
   トビン・ベル Tobin Bell ジグソウ
   フランキー・G Franky G. ザヴィエル
   グレン・プラマー Glenn Plummer ジョナス
   ディナ・メイヤー Dina Meyer ケリー
   エマニュエル・ヴォージア Emmanuelle Vaugier アディソン
   ビヴァリー・ミッチェル Beverley Mitchell ローラ
   エリック・ナドセン Erik Knudsen ダニエル
   ティム・バード Tim Burd
   トニー・ナッポ Tony Nappo
   ノーム・ジェンキンス Noam Jenkins
上映時間:100 分
製作国:アメリ
公開情報:アスミック・エース
初公開年月:2005/10/29
ジャンル:サスペンス/ホラー

 久しぶりの記事でこの映画の紹介になってしまって、何だか申し訳ない気分です。こんなことなら、一緒に借りたキェシロフスキの方を先に観るべきだったかもしれません。
 言わずと知れた大ヒット映画「SAW1」の続編。前のブログで前作の批評をして、さらにはそれに対する視聴者(?)の批評に対する批評まで展開して、やたら突っ込んでしまったわけですが、こうした作品の続編は概してつまらなく感じてしまうものなので、DVDで出てもしばらく観る気になれませんでした。しかし、今日キェシロフスキと「蝶の舌」を借りに行こうとレンタル屋に行って運悪く「蝶の舌」が借りられていたため、観ることが決定してしまいました。
 今回監督は前作と違う人物が担当していますが、製作には関わっており、脚本にも前作の脚本家が噛んでいるので、全く違うものとしてみることはできないでしょう。しかし、前作とは明らかに作品に対する姿勢が異なり、こうしたパズル映画にもはや意欲を失ってしまったのかしらと思われなくもない描写もいくつか散見されたので、もしかしたら違う作品としてみるのが適当なのかもしれません。
 最初からあまり期待をせずに観ていたのですが、期待しない具合をさらに上回ってちょっとがっかりな作品でした。いや、確かに普通に面白いことは面白いです。パズル性はあるし、ラストに向けたテンションの作り方がうまいので、観ていて飽きることはありません。映画の文法もよく心得ているし、論理の飛躍もしないように緻密に構造化されているので、ロジックとしては非常に安心して観ていられます。ただ、それって前作と結局同じなのでは?という疑問は常に頭の片隅から離れません。前作で驚いた人には全く新しみがないことでしょう。おまけに、今回の作品では、犯人であるジグソウ(ジグゾーでないところがポイントなんでしょうかね)の「生に対する執着」が嫌味のように展開されています。それがラストで新たに「ゲーム化」されるところは新しくて好きなのですが、そこにカタルシスが来るようにはどうも計算されていないようでとても残念。
 いいところももちろんあります。主役とも言えるマシューズ刑事の途中までのキャラ作りはなかなか素晴らしかった。ただ、これも多分に「映画的」であることは否めません。作品から離れた存在としては絶対にありえない。そこが魅力とも言えるのでしょうけれども。それから、前回と比較しても映像のセンスが良くなっています。編集のセンスというか。時間軸の作り方、ジャンプカットの仕方がうまくなっています。あれだけ映像への感度が良くなっていっているなら、もっと違う映画をとればいいのにと思う。「3」を予感させるような最後になどせずに。

 僕個人は、同系列の映画なら断然「CUBE」シリーズの方が好きだし完成度も高いと思うので、この製作陣には違う土俵で戦ってほしい。「CUBE」にはどうしたって勝てないでしょう。
 あんまり作品について悪口を言うのは好きではないので、この辺りで辞めておくとします。

メモ的なもの

http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2006/07/post_95cb.html
 僕はこの主張に対してやや懐疑的。確かに、社会から求められる、あるいは社会的に認められた「規範」から漏れていること、を問題にしている点では極めて重要だと思われるけれど、どうにも曖昧というか、何かと何かを混同しているようなそういうこそばゆい印象が拭いきれない。
 僕が一番納得いかないのは、「社会運動を社会規範への抵抗」として、全ての運動を「同一視」しようとしているロジック。そんなことは無いと思う。「運動」と運動への「理念」は別個のものとして捉えるべきだと思うし、ここで言う「運動」はたぶんに政治的なものなのだ。男性に配慮しないフェミニズムはだめであるというのはおかしい、と言うのはおかしい、と言うのは(何だか複雑だ)、あまりにナーバスというか、それって「動的」なものと「静的」なものを混同していやしないかと思ってしまう。黒人奴隷解放運動が白人弱者を想定外にしていたとしても、そもそも黒人奴隷解放に関しては何より「黒人」が問題なのであって、白人弱者とは問題の構造が違うのではないかという気がしてしまう。それを「社会規範への抵抗という点では同じ」と言ってしまうのでは、極めて暴力的ではなかろうか。
 前回の記事で「変態入門」を取り上げたとき、同じように見える「ゲイ」と「トランス・セクシュアル」は実は問題の構造が異なり、共に「運動」を展開することは実は難しいかもしれないということを書いた。「運動」の背景にあるのは「社会規範」だけであるとは限らない。フェミニズムがまず「女性」と言い出すのは、何よりも「女性」の問題が切実なのであり、それに男性をも回収してジェンダー・フリーを掲げるかどうかは副次的な問題なわけである。「運動」とはそのようなものであると思う。
 「批評家」と「運動家」の間で齟齬がある、というのはきっとこういう状態のことなのでしょう。冷静なインテリは、自分が現在関わっている問題に関して「運動家」なのか「批評家」なのか自覚的でなければならない。それを説明した上での主張でなければ、それは何も生み出さないし、対話もできないと感じるのは僕だけだろうか。