メモ的なもの

http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2006/07/post_95cb.html
 僕はこの主張に対してやや懐疑的。確かに、社会から求められる、あるいは社会的に認められた「規範」から漏れていること、を問題にしている点では極めて重要だと思われるけれど、どうにも曖昧というか、何かと何かを混同しているようなそういうこそばゆい印象が拭いきれない。
 僕が一番納得いかないのは、「社会運動を社会規範への抵抗」として、全ての運動を「同一視」しようとしているロジック。そんなことは無いと思う。「運動」と運動への「理念」は別個のものとして捉えるべきだと思うし、ここで言う「運動」はたぶんに政治的なものなのだ。男性に配慮しないフェミニズムはだめであるというのはおかしい、と言うのはおかしい、と言うのは(何だか複雑だ)、あまりにナーバスというか、それって「動的」なものと「静的」なものを混同していやしないかと思ってしまう。黒人奴隷解放運動が白人弱者を想定外にしていたとしても、そもそも黒人奴隷解放に関しては何より「黒人」が問題なのであって、白人弱者とは問題の構造が違うのではないかという気がしてしまう。それを「社会規範への抵抗という点では同じ」と言ってしまうのでは、極めて暴力的ではなかろうか。
 前回の記事で「変態入門」を取り上げたとき、同じように見える「ゲイ」と「トランス・セクシュアル」は実は問題の構造が異なり、共に「運動」を展開することは実は難しいかもしれないということを書いた。「運動」の背景にあるのは「社会規範」だけであるとは限らない。フェミニズムがまず「女性」と言い出すのは、何よりも「女性」の問題が切実なのであり、それに男性をも回収してジェンダー・フリーを掲げるかどうかは副次的な問題なわけである。「運動」とはそのようなものであると思う。
 「批評家」と「運動家」の間で齟齬がある、というのはきっとこういう状態のことなのでしょう。冷静なインテリは、自分が現在関わっている問題に関して「運動家」なのか「批評家」なのか自覚的でなければならない。それを説明した上での主張でなければ、それは何も生み出さないし、対話もできないと感じるのは僕だけだろうか。