クラッシュ [DVD]

クラッシュ [DVD]

<補足作品情報>

上映時間:112分
製作国:アメリ
初公開年月:2006/02/11


監督:ポール・ハギス
製作:ポール・ハギス
   ボビー・モレスコ
   キャシー・シュルマン
   ドン・チードル
   ボブ・ヤーリ
製作総指揮:アンドリュー・ライマー
      トム・ヌナン
      ジャン・コルベリン
      マリーナ・グラシック
原案:ポール・ハギス
脚本:ポール・ハギス
   ボビー・モレスコ
撮影:J・マイケル・ミューロー
プロダクションデザイン:ローレンス・ベネット
衣装デザイン:リンダ・M・バス
編集:ヒューズ・ウィンボーン
音楽:マーク・アイシャム
主題歌:キャスリーン・ヨーク


出演:サンドラ・ブロックジーン)
   ドン・チードル(グラハム)
   マット・ディロン(ライアン巡査)
   ジェニファー・エスポジート(リア)
   ウィリアム・フィクトナーフラナガン
   ブレンダン・フレイザー(リック)
   テレンス・ハワード(キャメロン)
   クリス・“リュダクリス”・ブリッジス(アンソニー
   タンディ・ニュートン(クリスティン)
   ライアン・フィリップ(ハンセン巡査)
   ラレンズ・テイト(ピーター)
   ノーナ・ゲイ(カレン)
   マイケル・ペーニャ(ダニエル)
   ロレッタ・ディヴァイン(シャニクア)
   ショーン・トーブ(ファハド)
   ビヴァリー・トッド(グラハムの母)
   キース・デヴィッド(ディクソン警部補)
   バハー・スーメク(ドリ)
   トニー・ダンザ(フレッド)
   カリーナ・アロヤヴ
   ダニエル・デイ・キム


受賞履歴:
アカデミー賞(2005年)
 作品賞
 助演男優賞 マット・ディロン
 監督賞 ポール・ハギス
 脚本賞 ボビー・モレスコ
     ポール・ハギス
 歌曲賞 キャスリーン・ヨーク(曲/詞)“In The Deep”
     マイケル・ベッカー(曲)“In The Deep”
 編集賞 ヒューズ・ウィンボーン

ゴールデン・グローブ(2005年)
 助演男優賞 マット・ディロン
 脚本賞 ポール・ハギス
     ボビー・モレスコ

英国アカデミー賞(2005年)
 作品賞
 助演男優賞 マット・ディロン
       ドン・チードル
 助演女優賞 タンディ・ニュートン
 監督賞(デヴィッド・リーン賞) ポール・ハギス
 オリジナル脚本賞 ポール・ハギス
          ボビー・モレスコ
 撮影賞 J・マイケル・ミューロー
 編集賞 ヒューズ・ウィンボーン
 音響賞

ヨーロッパ映画賞(2005年)
 インターナショナル(非ヨーロッパ)作品賞 ポール・ハギスアメリカ)

インディペンデント・スピリット賞(2005年)
 助演男優賞 マット・ディロン
 新人作品賞

放送映画批評家協会賞(2005年)
 作品賞
 助演男優賞 マット・ディロン
       テレンス・ハワード
 アンサンブル演技賞
 監督賞 ポール・ハギス
 脚本賞 ポール・ハギス
     ボビー・モレスコ

 公開されるや否や話題になった作品で、アカデミー賞でも、同系統と言えば同系統の映画である「ブロークバック・マウンテン」を押しのけて作品賞最有力と言われていたもの。強烈な差別映画で、スパイク・リーを大人しくした感じの色彩ではあるけれど、相当に誠実に作っていることは疑いようが無い。近年のアカデミー賞はなかなかいい作品を選んでいるような気がするけれど、その裏にあるのは何なのだろうか。随分暗い作品ばかり選ばれているような気がしないでもないけれど。
 この作品は粗筋を言うのが難しい。それは、誰もが主役であり脇役でもあるからである。犯罪の街ロサンジェルスでの日常を描いているに過ぎず、その中での「民族的な」衝突(クラッシュ)の様子を拾い集めたものと言える。恐らくロサンジェルスでは当たり前のことであろうが、その描き方は普通ではない。
 どの「民族」もキャラが立っている。一人として無駄な配置の人物はいない。話は伏線だらけであり、その全てが差別の様々な側面を切り出している。差別はまた被差別者自身の精神からも強固に構築されるという(ちょっと自分でいやになるくらい古い感じがするのだけれど)イデオロギーも惜しげも無く投入されている。あくまで差別を「民族」に絞ってることがまた映画としての成功に繋がったのだろう。長い間醸成されてきた(それはアメリカだけの問題に留まらない)差別の前では、どんな偽善も意味をなさない。しかし、どんな偽善でも、それがたとえ利己的な動機からであっても、小さな社会を動かすこともある。そんな積み重ねが共同体を作り、街を作っているのだ。些細な「クラッシュ」の積み重ねが、人々に、その街で「生きている」という感覚を逆説的に実感させている。それがどんなに理不尽なものであったとしても、それは紛れも無い事実なのであり、人々はそれを無意識のうちに受け入れているのだ。
 そうした前提の中で、一人の若者が銃弾に倒れるところに意味がある。この作品の中で本当の意味で死んでしまった人間は、たったの一人しかいない。彼はどこまでも生きていることを実感しようとしていた人間だった。彼の死はまた、皮肉にも母親や兄の生を証明する材料となる。多くの人間は誰かの死の上に、あるいは自分の死の上に生きているのかもしれない。
 自分を侮辱した警官に命を救われる女性、またかつて侮辱したことを知りながら命がけでその女性を救い出した警官。二人の内面を巡る葛藤。ここには、もう一つ、人々が「クラッシュ」していく大切な意味が隠されている。分かり合う、などという物わかりのいいことを言うつもりは毛頭ない。永遠に分かり合えないかもしれない関係の間に、一つのコミュニケーションが生じる瞬間に感動するのだ。
 話が妙にドラマチックになることも無く、その意味では「エレファント」を観たときのような感動があった。現実をきちんと見、考えている人間がいることを実感する。それを作品として多くの人に伝えようとする人間がいる。かなり勇気のいる設定であったと思うけれど、まずはこうして作品を撮ったことを讃えたい。
 音楽、撮り方ともに嫌味でなく、最後まで安心してみていられた。逆にもう少し遊びがあっても良かったと感じるくらい静かであったけれど、作品の性質上仕方ないことかもしれない。


 差別と名の付くものは、恐らくこの先も無くなることは無いであろう。しかし、どんな土台の上であってもいいから、何かしらコミュニケートできる基盤があるといい。それが「クラッシュ」という形であるかどうかはわからないけれど、それもまた一つの形であることは確かだ。
 リベラルであるとかトレランスであるとかいう以前に、コミュニケートできるという状態を鋭く逃さないでいることが大切なのかもしれない。