駄文

 柿ピーを食べながら珈琲を飲んでいたら、舌を火傷していることに気付いた。それくらい鈍感になっていた今日、今までの時間。
 フッサールによると、人は、過去把持と未来予持をすることによって、現在という原印象を形成するらしい。時間という概念は云々、という前に、僕という実存はそのことをとても深い実感として感じることができる。去年があって来年があるから、今年という年を感じられる。昨日があって明日があるから、今日という日を感じられる。一時間前があって一時間後があるから、今という時間を感じられる。
 僕はふとパソコンのディスプレイ右上に表示された時間を見る。パソコンの前に座っている限り、何度でも確かめるその時間。見る度に、10分前は何をしていたっけと思う。そして、10分後に何をしようと思う。結局僕はその連続の中で、珈琲を一口飲むくらいのことしかしない。その積み重ね。
 一時間前にはご飯を食べていた。一時間後には床に入っているだろう。では今は何をするべきだろう。そんなことは、考え始めるとだめなのだ。流れていく連続の中で、反省すること無く自然と動く、ということが阻害されてしまう。反省、内省を始めると、手が止まり、足が止まる。時の流れを感じ始める。今の自分が不透明化する。そうなると、僕は珈琲を一口飲むくらいのことしかできなくなる。


 という、大いなる言い訳。