とりとめが無さ過ぎる

 最近映画もろくに観ていられないような状態で、この間は折角借りてきた映画を結局最後まで観られないまま返すという、非常に屈辱的なことをしてしまった。話の筋が中途半端に頭に入っている。ああ、きっとあの映画は暫く観ないんだろうなあ、もったいない。


 ということを何故突然書き始めたのかというと、やはり人間というものは何かを書き始めると落ち着くもので、というか自分の頭の中でいろいろなものが整理されるものであるから。
 しかし、ここは公共のスペースであり、いかんせん僕はそんなに露出狂でもないので(いや露出狂なんだけど、わざわざ新宿のアルタ前に行って「裸」になりたいとまでは思わない)、自然書く内容も限られてくるわけですな。だったら書かないほうがましじゃい!と今まで思っていたのだけれど、基本が露出狂なので誰かに読まれている方が安心するのです。終わってる、自分。


 おお、今気づいたけど、はてなの編集スペースに「ビデオキ」なる怪しいボタンが増えてる。ぽちっと押してみる。おお、なるほど、そういうことか。そこまで親切にしなくてもいいんじゃないの。
 どうでもいいことでした。


 今日は現代舞踏について薀蓄を言ってくれる授業に出てきたのですが、先生がほんとに薀蓄を言ってくれたので面白かったです。毎週楽しみに出たいと思います。
 今日は、チェホフの「かもめ」の話が出てきたのですが、僕がこのタイトルを聞いたときに真っ先に思い浮かべたのは「Lili」という映画でした。前のブログにも書いていた映画だけれど、結構原作に忠実というか、でも舞台とか設定はしっかり現代らしくなっていて、なかなか素敵な映画です。そして、この映画を観ると、チェホフはすごいと思うわけです。どうすごいかはご想像にお任せします。何でも書けばいいというものではないですね。
 さらに、当然と言えば当然の成り行きですが、ストラヴィンスキーの「春の祭典」についてのエピソードが出てきました。ニジンスキーを振付に選ぶに至ったいきさつとか、ディアギレフのプロデューサー手腕についてとか、ストラヴィンスキーは自分より天才な人間はいないと思ってたとか、面白い話をさも面白くないかのように語るので余計に面白くなりました。


 何だか久しぶりに軟派な文章を書いてみると、どうでもいいことしか出てこない。


 社会的に考えていることはいくつかあります。平等とか権利とか制度とか。最近は選挙についてもよく考えたりします。しかし、これはまださすがに露出するに至っていない内容なので止めておきます。
 一つ言えることは、社会学者の赤川氏と考えている方向性が同じであることがわかって、嬉しいのやら何なのやら、というかむしろそれでいいのかと思ったということです。問題の中心にいる人、あるいは中心の近くにいる人って意外とわかってないものだなと思っていたけれど、やっぱり中心の近くにいたほうが勘は鋭いんだなと思ったり。アカデミックな場で考察していると、武器は沢山出てくるけれど実感としてはやや遅れるのではないか。運動する立場の人間は常に一歩先を見て動いていないといけない。そうでないと「勝つ」ことができないから。
 攻撃や批判をすることは簡単だけれど、今動いている人たちの戦略が制度に対して働きかける影響、あるいはそこから相互作用的に運動が受ける影響を予測することも必要なんですね。イデオロギーや哲学を「看板」に振りかざすことは簡単だけれど、運動の根底に流れている精神はもっと切実で、そして実存的なものなのだと思う。

 全然具体的ではないですが、この話はとりあえずこれくらいで。
 自分って影響を受けやすいんだなあ。自覚しているだけいいか。


 自分は未だに、発信することを恐れている。そんな資格があると思っていない。たぶん、自分の中のロジックがはっきりしていないからなのでしょう。色々なものを出し切って一つのまとまりを自分で構築していく意志が無いといけない。考えなきゃ。


 書きすぎた。おしまい。