デュルケムの「自殺論」について思い巡らす

 「自殺は、個人の属している社会集団の統合の強さに反比例して増減する」という一般法則を「発見」したところが、デュルケムの偉いところらしい。この点については、僕が「自殺論」そのものを読んだわけではないということもあって、特に反論は出来ない。それについていくつかの考察を行なっていることは確かで、デュルケムのこの仕事は評価に値するでしょう。


 しかし、いくつか腑に落ちない点はある。
1、統計の取り方が恣意的ではないか。
2、宗教、家族、政治の話を統一的に語ってよいのか。
3、家族についての考察が甘くないか。
4、「社会統合」「社会的連帯」の定義が難しい。
 以下、これらについて詳しく述べてみます。


1、統計の取り方が恣意的ではないか。
 いくつかの、自殺についての統計がある。彼はそれらを引き合いに出しながら、ある宗教とある宗教、ある家族構成とある家族構成、ある政治状況とある政治状況とを比較し、そこに見られる「差」を説明しようとしている。
 しかし、本当に差が存在しているのだろうか。数値はおよそ100万対やせいぜい1万対で、そこで見られる100の差など、比率的には小さいものである。サンプリングされている年代も10年以内に限られていたりして、もっと長いスパンで平均を取ってみたら潰せるくらいの差かもしれない。人一人の命は大きいから、10でも違えば大事だ、という議論なのだとしたら、表現として「自殺率」という言葉を使うのはナンセンスに思える。
 そして、より母体を大きくして平均をとった場合の数値を引き合いに出して、彼は、各社会は固有の自殺率を持っている、と結論付けている。その一方で、家族構成別、宗教別に統計を組み替えると差が見えてくるということをしている。これは、統計のマジックのようだ。上で「各社会」と言った場合、彼はどのような社会を想定しているのだろうか。いまいち曖昧で分かりづらい。
 しかも、「子供がいるという状態」や「家族の成員」のようなものが、具体的にどのようなものを想定しているのかも分かりづらい。


2、宗教、家族、政治の話を統一的に語ってよいのか。
 結論として、彼は宗教、家族、政治社会の統合の強さと自殺率の相関に着目し、そこに一般的な法則を見出したとする。それは、宗教にしても、家族にしても、政治にしても、それが自殺率を低める要因となるのは、個々の成員の諸活動が共通の目標へと集中されることによって、社会的連帯が強固になるときであるから、結果的に、自殺率を決定する要因は社会集団の統合の強さではないか、という考えからくる(一文が長い)。つまり、個人が社会と連続した状態になれれば、自殺は減るということだ。
 しかし、宗教社会、家族社会、政治社会それぞれは、異なる成員、異なるシステムを措定していると考えられる。また、それらの社会は、世界全体(仮にそういう表現が許されるとしたら、だけれど)と、異なる仕方で関わっていると考えられる。であるから、デュルケムが、「自殺は、個人の属している社会集団の統合の強さに反比例して増減する」と語る時、その社会集団とは何を想定しているのかが問題となる。もし世界全体の社会としているなら間違いであるが、おそらく彼の口ぶりからしてそう考えてはいない。だとするとそれぞれの社会ということになるけれど、その場合は「一般的法則」と言ってしまうと語弊が出てくる。あくまで「個人の属している」社会集団なのであって、その限りにおいて個別的に分析しなければいけないのではなかろうか。
 ということは、きっとどこかの頭のいい人が既に言っているのでしょうね〜。


3、家族についての考察が甘くないか。
 宗教、家族、政治の中で、僕は家族についてが一番納得できていない。ただ理解できていないだけかもしれないけれど。
 一番納得できないのは、「家族」というものと、「結婚」「子供」ということを同一化している点。家族の成員というものも問題になっているけれど、具体的にどのようなものを想定しているのか。子供がいる家族が一番自殺率が低く、ついで結婚している者、やもめの者、そして一番自殺率が高いのが未婚者である。未婚者にもいろいろな種類の人間がいる。病気を患っている者、貧乏な者、セクシャルマイノリティーの者、離婚した者、などなど。それらは個別に事情を抱えており、またその違いは重大である可能性も高く、同じカテゴリーとして分析するのはいささか問題がある気がする。そして、未婚であっても「家族」を持っている場合は当然ある。それは内縁であったり、同棲であったり、また親や親戚、友達などと住んでいる場合もあるだろう。おそらく、デュルケムの想定している「家族」は、結婚する男女を核とする世帯のことだろう。しかし、本当にそう限定して分析してしまっていいのだろうか。
 自殺抑止作用の源泉となるのは、前提として、「共通の信念・感情の交流」である。それは、必ずしも結婚した男女の間でのみ生まれるわけではないことは、皮肉にも彼自身の統計が物語っている。彼はもちろんそのことについても考察しているわけだけれど、「家族」は思いのほか複雑で扱いづらい概念なのかもしれない。


4、「社会統合」「社会的連帯」の定義が難しい。
 これはもうそのままで、僕の頭ではこの用語の定義がうまく咀嚼できない。社会とは何か、統合とは何か、というところから既に疑問である。
 デュルケムの考察から考えてみると、「社会」は、個々人の行為を安定的に位置づける、全体的な意味連関のことであると思われる。それはそのまま、個人の行為準則となる。それがその成員それぞれの精神の中に内在化されることによって、個々人は日常世界を一層自明視するようになり、行為に対していちいち確認や反省(これは動揺や存在不安を招く種類のものとされる)をする必要が無くなるため、自然的態度をとるようになる。つまり、「統合」されるということだろう。「全体的な意味連関」はそのまま、「社会的連帯」にもなる。それらが強固になるほど、個人は自分の行為の拠って立つ意味をいつでも苦労せず参照することができるようになる。
 しかし、連帯の強さというものはどのように測るのだろうか。2の疑問にも通ずるけれど、拠って立つ意味連関によっては尺度が異なる可能性も十分に考えられる。それに、ここでは宗教、家族、政治を挙げているけれど、それだけが拠って立つ意味だろうか。政治については政変と戦争を挙げていることからも分かるように、ここでは法律や制度の問題、社会的慣習の問題は捨象されているように思われてならない。彼は何をもって、「社会的連帯」と言ったのか。やはり曖昧ではなかろうか。


 以上の流れとは少々ずれるかもしれないけれど、僕自身がやや哲学的に考えてみた「連帯」について、少し言及してみたいと思う。
 まず、個人は一実存である。実存とは、個人の「生きる」状態そのものであるが、その実存は、「社会的実存」のようなものに内包されている、もしくは接続されて、意味を与えられていると考えられる。
 個人は、私的利害から行為を規定することも可能であろう。しかし、それが実存の内部で意味あるものとして認められるためには、他者からの承認が必要となる。なぜなら、行為の結果は何者かに作用して初めて、感じられるからである。そう考えれば、個々人は、個人主義的状況を、ある「社会的実存」の成員同士で相互的に確認しあい、承認しあうことで、世界、共通の地平へと接続されるのではなかろうか。
 この「社会的実存」は、人によって、「システム」とか「階層」とか色々な名前で呼ばれているものだろう。
 「社会的実存」の内容、外形がはっきりしていればいるほど、それの内包している意味は、確固たるものとなるだろう。そうすればそれだけ、個人は自己の実存を揺るがされる不安から解放される。

 もっとも、たいていの場合、全く「社会的実存」を感じられないという状況は、起こりにくいと考えられる。なぜなら、個人は多くの「社会的実存」と接続されているからである。であるから、多かれ少なかれ、何かしらの「社会的実存」は個人を意味づけていると実感できる。ただ、その個人の実存にとって根源的かどうかによって、それに接続する意味、パワーが大きく変わってくる。例えばそれは信仰であったり、セクシャリティであったり、国家であったり。実存にとって根源的な「社会的実存」に、何事かクリティカルなことが起こった時、実存そのものも大きく揺さぶられ、存在不安に陥る。それがどうしようもなくなった時、人は死に至るのではなかろうか。


 最近の報道で「自殺者数が増えた」というような話が出てくるけれど、おそらくその表現は正確ではない。全体的な統計を見れば、デュルケムの言うように、「各社会は固有の自殺率を持っている」わけであるから、おそらく大きな変化は無いはずである。問題となるのは、メディアが報道する内容において、何が重要な「社会的実存」としてとりあげられているのか、ということであり、そこで規定される集団の統計なのである。


 書きすぎて疲れた。長い詭弁。


 今日は、講演に使えるように大きなスピーカをつけた講堂で、授業を受けた。おそらく座る席が悪くて、スピーカの発する高周波音と低周波音を耳が拾ってしまい、気分が悪くなって途中退室。
 絶対音の研究をしている弊害。まったくもー。