ありがとう

 どういう形式でいこうかと考えたが、凝りすぎても仕方ないし、シンプルに50音順でエポックを選んでいくことにした。


 最初の今日は、僕が一番好きな言葉であり、なおかつなかなかうまく伝わらない言葉である「ありがとう」を選んでみた。
 ありがとう。この簡単な言葉はそれだけで、伝える側にも伝えられる側にもある了解を与えてくれる。僕の個人的な感情では、この了解にはいつでも温かいものが宿っていて欲しい。謙遜が宿っていて欲しい。魂が宿っていて欲しい。別段美しいことを言おうとしているのではなくて、ささやかな僕の想いであり、ただの気分である。しかし、この気分というものは存外大切なものなのである。
 ある日街を歩いているとき、前を歩いていた人がハンカチを落とした。それは渋い紫にワンポイントの柄をあしらっただけの、至ってシンプルなものだった。慌ててそれを拾い上げて、その人に渡そうとしたけれど、人ごみにまぎれてどんどん遠くに行ってしまう。半ば尾行するように必死になって後ろをついていくと、その人はハンカチを落としたことに気付いたのか立ち止まって周囲を見渡した。目に入るか分からなかったけれど、ハンカチを高々と掲げて手を振った。その人はすぐにその様子に気がついて、済まなそうな顔をしてこちらに歩み寄ってきた。「どうも、ありがとう」と、ゆっくり穏やかな調子でその人は言った。僕はただ笑顔で会釈をしてその場を離れた。
 またあるとき、僕はうっかりペンを忘れていることに気がついた。鞄の中を探してみるけれど見つかる気配はない。そのとき、その様子を見ていた後ろの座席の人が、とんとんと僕の肩を叩いた。焦っていた僕は少し不機嫌そうに振り返ってしまったと思う。その雰囲気に少したじろぎながら、後ろの座席の人は「はい、これ」と言ってペンを貸してくれた。僕は、不機嫌そうな顔をしてしまったことを詫びて、「ありがとう」と呟いた。
 ありがとう。それは、たくさんのささやかな場面で伝えられるはずの言葉。でも、なかなかそれをそれらしく伝えることができない。何かを恥ずかしがって、うまく言葉にならなかったりする。ありがとう、の一つを言えないだけで、この広い大地から生まれ来ようとしている萌芽の一つを、枯らしてしまっているような気がする。

 だから、僕は気付いたら言うようにしている。微かな笑顔とともに、「ありがとう」の言葉を。そして、少しでも「ありがとう」の輪を広げていけるように生きている。
 それは、本当にささやかな僕の気分。