いいえ

 早速「毎日書くつもり」が本気で「つもり」になってしまいそうですが、無理すると続かないのでマイペースにいきます。


 「い」は何にしようかと思っていて、最初「胃袋」にしようかと思ったけれどどうもうまくいかず、「家」にしようかと思ったらそれはそれでなかなか内容が絞れず、最終的には「いいえ」に落ち着いた。
 いいえ、という返事を言う場面は少ない。それは、気分の問題ではなくて、本当に「いいえ」と口にする場面が少ないということである。何かの例文のように、「いいえ、それは違います」という言い方は普通しないで、むしろ、「いいえ」何ていう言葉は差し挟まなかったりする。外国語ではNOとかNeinとかNonとか結構頻発しているような気がするけれど、日本語ではそれに類する言葉がはっきりと口に出されない印象があるのだ。「はい」や「うん」のような肯定的な返事は相槌のように使うこともあるけれど、あからさまに拒絶を表す「いいえ」はどうやら使いたがらないらしい。
 
 自分の場合、いいえ、という気分になることも少ない。いや、より正確には、いいえ、という気分になっても結局、はい、になってしまうということだろうか。それは、はいはい、のときもあるけれど、大抵の場合承諾してしまう。半泣きされながら新聞を取るように勧められたら結局取ってしまうし、何か管理職的なことをお願いされたらついついやってしまうし、むしろ何でも乗り気で抱え込んで自分の首を絞めることも多々ある。人に何かを頼むのが下手というのも、頼まれごとをされやすい性質を形成しているようでならない。しかし当然のように、自分がやっても仕方ないことにまで、いいえ、という気分にならないのは、自分のみならず周りにとっても不都合が生じるものである。何でも経験しておこう、挑戦してみよう、という気概とはまた種類の異なることである。
 思えば、頼み事が下手ということは、相手とのコミュニケーションを最初からシャットアウトしていということになりはしないか。それこそ、「いいえ、あなたたちには何も頼みません」もしくは「いいえ、私は何もしません」という随分高慢な精神で生きているようにも思える。そんなところで「いいえ」を使うくらいなら、やだやだと言って我がままを言う子供の方が正直でいい。頼み事をするということは、その相手を信頼するということであるし、相手と自分の関係を肯定的に捉えるということであると思う。適切に頼み事をし合える関係は、阿吽の呼吸で結びついた関係なのだ。その関係性においては、「いいえ」と言う優しさ、勇気も必要になってくる。


 優しく「いいえ」を言える人になろう。そしてそれが相手の心に爽やかに響くようになろう。