うそ

 50音エッセイ、ちょうどいいので「嘘」でいきたいと思います。


 僕は昔からよく嘘をつく人だったけれど、嘘をついてもすぐにバレる人でもあった。だから大きい嘘をつこうと思ったことは無い。嘘をつくくらいなら何も言わないでいることの方が多い。嘘というより言い訳の方が多いかもしれない。嘘と言い訳の区別はなかなか難しいところがあるけれど、とりあえず、言い訳にならない言い訳はよく言う。小さい頃はそれで母親に怒られていたものである。
 とにかく、公文に行ったりするのが嫌で、さぼってゲームセンターに行くこともしばしばだった。しかし、近所のおばさんなどがたまたま目撃したりして、バレる。目撃情報が無くても、母親の勘というものは鋭いもので、行っていない、ということはどうやらわかってしまうらしい。実際言われたこともある。「あんたが何か隠し事してる時はすぐわかるのよ」と。そうしてバレる度に当然問いつめられ、すぐに謝ればいいものを、「あのね、だれだれちゃんに誘われてね」とか「この間行った時に忘れ物をしたのを取りにいってね」とか、どうでもいい嘘をつく。「行ってない」と嘘をつくこともある。しかし、そうして嘘をつき始めるとどんどん嘘をつかなくてはいけなくなってきて、母親に詰問されているうちに応えに窮し、遂にはボロが出る。そういうことは、結構たくさんの人が経験していることでしょう。
 嘘は、つき始めると止まらなくなるのだ。少しでも合理的に生きようとしている人なら、つき始めた嘘の合理性をとことん守ろうとしてしまう。つじつまが合うように途中まで頑張る。そして力つきる。力尽きないような誠に稀有な人間は、よほどの虚言症かタフな人だ。合理的に生きていると、嘘をついていることのそもそもの不合理性に気付いてしまう。そこから一気に破綻する。だったら最初から嘘などつかなければ良かったのに、となる。

 相手のことを思って嘘をつく、という話はよく聞く。でも、それがいつも正しいこととは思わない。それはただの言い訳でしかないことのほうが多いと思うから。正直に言えないようなことがあるのはそれだけでとても辛いことだけれど、それを隠そうとするあまり嘘をついてしまうのは、余計に自分を追い込んでしまうことになる。余計に本当にことを言えなくなる。そう考えると、小さな嘘をどんどん積み重ねるようになる。まさに「約30の嘘」の中で語られた台詞そのものだ。そういう嘘はついてはいけないのだと思う。嘘をつくくらいなら、やはり沈黙していたい。正直に言えないなら、言えないことを謝るくらいの姿勢で僕はいたい。
 「やさしい嘘」という映画がある。その中では、息子が死んだということを最後まで母親に言えない娘と孫の姿が描かれている。しかし、その映画の最後の方では、息子の死を知った母親は、教えてくれなかったことを全身で哀しんでみせる。「グッバイ・レーニン」という映画では、東西ドイツが統合されたことを母親に言えない息子が、何とか東ドイツが存続しているようにみせかけようとする。しかし、真実を知ったとき母親は倒れてしまうのだ。帰らぬ人になる前の母親の姿も妙に寂しい。*1
 相手のためにつく嘘は、時に人を助けることもあり、時に人を大きく傷つけることもある。もちろん多面的な部分があると言うのはそうだろう。しかし、取り返しのつかない結果をもたらす嘘はやはりついてはいけないと思う。嘘がアポロン的であろうがデュオニソス的であろうが関係ない。その嘘の持つ「効用」が問題なのだ。

*1:誤解の無いように言っておきますが、もちろんこれらの作品で描かれている「嘘」は大変美しく、だからこそ映画として成立しているわけです。