ワインコンクール

 50音エッセイ。あいうえお順で書いていこうとするとなかなかネタが上がらないので、思いついた順に書きたいと思う。


 何かを飲みたいけれど、チューハイやビールのような炭酸系が飲みたくない、という時、僕は大抵ワインを購入する。これだと4日は飲めるし、健康にもいい。おまけに、極安ワインでなければ悪酔いもしない。これが日本酒だと飲み過ぎて二日酔いの危険性があるし、焼酎だと氷を準備したりお湯を沸かしたりするのがめんどくさい*1
 そんなこんなで、昨日、近所の酒屋まで足を運んでみた。


 しかし、財政的にそんなに余裕があるわけではないので、買おうにも、いかにもおいしそうなワインは買えない。ウィスキーにも目を配ってみたけれど、どれもいい値段。これはどうしようかと考えあぐねていると、「金賞」の文字が目に入ってきた。値段は1000円でお手頃。ただし、コート・デュ・タルンとあまり耳にしない産地のもので、いかがわしい。
 暫く逡巡してみた後、結局これを購入してみることにした。腐ってもフランスワイン。一応「金賞」らしいし、大丈夫だろうと。


 その考えは甘かった。飲み口は辛口の赤ワインで嫌いではないけれど、後味が殆ど無く、むしろブドウのちりちりとした酸っぱさだけが残って気持ち悪い。まずくはないけれど、何というか、やり場に困る味である。
 よく知らないのでワインコンクールについて調べてみると、ワインコンクールは世界中の様々なところで数多く行なわれているらしい。しかもコンクールによっては金賞を10も20も出す。言ってしまえばお祭りのようなもの。確かに、よく見ると「金賞」としか書かれておらず、何のコンクールなのか明記もされていない。
 ソムリエは、こうした事情をよく知っているので、「金賞」を受賞しているというだけでそのワインを薦めることは決して無い。金賞ワインの中にはもちろんいいものもあるだろうけれど、それはソムリエの舌によって選ばれ、ソムリエ付きのお店やレストランに並べられることの決まったものなのだ。金賞云々以前に、ソムリエの力である。


 こういうことは、ワインでなくてもよくあることのような気がする。何となく良さそうな看板に乗ってみたけれど、蓋を開けてみたら何と言うことは無かった、ということ。看板自体には嘘は無い。それに呼ばれてふらふらとくっついていってしまうのは、自分の心である。一度は騙されてみてもいい、と口で言うのは簡単だけれど、その一度が酷いしっぺ返しだったらどうしようもない。それこそ、やり場に困る苦味である。
 人間関係にしてもそうかもしれない。写真や第一印象、表向きの語り口だけに、その人の全部が表れるわけではない。もちろん一部は表現されるし、それは一つの真実に違いない。ただ、それが思いの外重要な印象となって心の底に焦げ付いてしまうことは、誰しも経験したことがあることではなかろうか。最初から全開で向かえる人なんて、そういるものではない。しかし、それを何となくわかっていても、どこかで人は、第一印象、わかりやすい「看板」に固執して、勝手に傷ついてみたりするのだ。


 人間には、「世間の目」というコンクールがある。時々自分のものであるかのように勘違いして、そのコンクールの評価に泳いでしまうこともある。しかし、「自分の目」というソムリエがいるのならば、彼らはきっと、本当に素敵な味を教えてくれるはずである。
 どうせなら、おいしいワインを飲もう。少し時間がかかることや、我慢しなければいけないことがあったとしても、味を知ることのできた喜びを感じたいから。

*1:ただし、寒さが厳しくなるとお湯割りはとても温まる