たまには

 研究室からちょっとした駄文を書き込んでみよう。
 他人のブログを見ているときに「只管」という単語を目にして、意味は分かっているのだけれど読み方がわからなかった。より正確には読み方を失念した。
 というわけで、みんなの「グーグル先生」にお尋ねしようと、ツールバーに「只管」と打ち込んだら、予測変換で「只管打坐」が出てきた。途端、この単語が「しかん」と発音することを思い出した。


 こは如何に。


 きっと四字熟語で覚えていたということなのだろうけれど、只管を見て只管打坐を思い出してもいい。塊でインプットしていただけでパーツでは頭に入っていなかったのか。全く不思議なことである。

 ちなみに、「只管」で「ひたすら」と訓読む。これには、只管打坐を見て、「しかん」が分かって初めて、思い至った。これもまた不思議なことである。
 
 記憶たちが、面白い芋づるで思いも寄らなかったところに接続されていることがよくある。只管打坐は同じ種類の芋同士を繋げていたようなものだけれど、芋づるをたどっていったら、例えばサツマイモに対するフライパンのような全く関係ないものと繋がると、一瞬驚いて、そして笑ってしまう。自分の場合、それは映像や音楽であることが多い。


 もっとたくさんの「エラー」を呼ぼう。

50音エッセイ

 我ながら頭が悪いと思ったのだけれど、この50音エッセイを続けようにもなかなかモチベーションが上がらないのは、「50音である」ということ以外にテーマが無いからであるということに思い至った。もっと早く思い至るべきであった。
 もちろん、今は面白いアメリカのドラマとかもあってそれらに首ったけ状態になっているから、文章を書く時間が無くなっているという説もあるけれど、50音などというテーマにもならないテーマだけではどうにもならない。串田孫一先生は、別のある統一感を持ってそういうエッセイを書いていた。というわけで、僕も何かしら他の、自分のモチベーションが上がる統一テーマを考えたいと思う。

 どうでもいいけれど、ブログというものは面白い。僕がそういう人間というだけかもしれないけれど、いくらどこかでブログのテーマなるものを考えても、結局そのとき書きたいことというものは分散するもので、レビュー以外にここに書きたい「些末事」は何気に変容していくものだ。書くスタイルも当然変わる。内容が異なるわけであるから。そうなると、ここに引越した理由を鑑みてそれに逸脱しない程度に、自分のことを許容するのも大切なような気がしてきた(というのは壮大なる言い訳か)。


 さしあたって、書いてしまった「あ」「い」「う」はそのままにするとして、「え」から先のテーマを考えたいと思う。
 どうしようか・・・。
 今自分に関心のあることといったら、「日々の生活における様々なスタイルのコミュニケーション」であったりする。しかし、そんな大層なテーマで50音エッセイが書けるのか疑問だ。
 テーマを一つに絞るのが間違いなのかもしれない。コミュニケーションを一つの大枠として、それにまつわる小さなテーマがいくつもあるのがよさそうだ。
 友人関係、恋人関係、上下関係、動物との関係、街との関係、道具との関係・・・とにかく、ある人物(もしくは物、動物、植物など)とある人物(以下同文)との限定された関係におけるコミュニケーションを問題にしてみよう。
 これは、エッセイというかフィクション(もしくはノンフィクション)のショートショートになる可能性もある。その集成が意味を持つためには、登場人物が一定であった方がいいだろう。
 主人公は、「あ」「い」「う」に合わせる形で「僕」にする。ただし、これは僕のことであるとは限らない。ある人物のキャラクターを「僕」に仮託する可能性も十分あり得る。この「僕」には仲のいい友人が二人か三人いる。彼らが主人公になる可能性もある。もちろん、この友人たちが実在する人物と関係があるとしても、それは特定の人物を指すわけではなく、特定の人物たちの総合だ。
 場所は東京にしよう。それは僕自身が東京を好きになっているからであり、東京の街を散歩するがごとく書いた方がきっと楽しいから。今思いついたけど、50音エッセイの他に、駅エッセイとか街エッセイみたいなのも面白い。書くかどうかはともかく。東京で起こる様々な関係。そのためにはもっと東京について知る必要があるけれど・・・大丈夫だろうか。
 僕は映画や音楽が好きだから、毎回何かしら一編絡ませてみよう。


 その他、細かい設定は書きながら決めていくということで。
 あくまでこれはただの遊びなので、下らないことばかりでもご容赦を。そうならないように気をつけますけれども。


 とりあえず今日は終わり。

iTunes

 最近iTunesをパーティーシャッフルでかけているのだけれど、なかなか面白い順番でかけてくれることがたまにある。
 今日感動したのは、Flipper's Guitar「午前三時のオプ」から東京事変「歌舞伎」にいってBonnie Pink「Heaven's Kitchen」にいった流れ。あまりに鮮やかに流れたからびっくりした。
 どうでもいいけれど、最近はJ-Popを勉強中です。意外と聞き出すとはまるもんですな。まだまだ全然聴けてないのだけれど。

クラッシュ [DVD]

クラッシュ [DVD]

<補足作品情報>

上映時間:112分
製作国:アメリ
初公開年月:2006/02/11


監督:ポール・ハギス
製作:ポール・ハギス
   ボビー・モレスコ
   キャシー・シュルマン
   ドン・チードル
   ボブ・ヤーリ
製作総指揮:アンドリュー・ライマー
      トム・ヌナン
      ジャン・コルベリン
      マリーナ・グラシック
原案:ポール・ハギス
脚本:ポール・ハギス
   ボビー・モレスコ
撮影:J・マイケル・ミューロー
プロダクションデザイン:ローレンス・ベネット
衣装デザイン:リンダ・M・バス
編集:ヒューズ・ウィンボーン
音楽:マーク・アイシャム
主題歌:キャスリーン・ヨーク


出演:サンドラ・ブロックジーン)
   ドン・チードル(グラハム)
   マット・ディロン(ライアン巡査)
   ジェニファー・エスポジート(リア)
   ウィリアム・フィクトナーフラナガン
   ブレンダン・フレイザー(リック)
   テレンス・ハワード(キャメロン)
   クリス・“リュダクリス”・ブリッジス(アンソニー
   タンディ・ニュートン(クリスティン)
   ライアン・フィリップ(ハンセン巡査)
   ラレンズ・テイト(ピーター)
   ノーナ・ゲイ(カレン)
   マイケル・ペーニャ(ダニエル)
   ロレッタ・ディヴァイン(シャニクア)
   ショーン・トーブ(ファハド)
   ビヴァリー・トッド(グラハムの母)
   キース・デヴィッド(ディクソン警部補)
   バハー・スーメク(ドリ)
   トニー・ダンザ(フレッド)
   カリーナ・アロヤヴ
   ダニエル・デイ・キム


受賞履歴:
アカデミー賞(2005年)
 作品賞
 助演男優賞 マット・ディロン
 監督賞 ポール・ハギス
 脚本賞 ボビー・モレスコ
     ポール・ハギス
 歌曲賞 キャスリーン・ヨーク(曲/詞)“In The Deep”
     マイケル・ベッカー(曲)“In The Deep”
 編集賞 ヒューズ・ウィンボーン

ゴールデン・グローブ(2005年)
 助演男優賞 マット・ディロン
 脚本賞 ポール・ハギス
     ボビー・モレスコ

英国アカデミー賞(2005年)
 作品賞
 助演男優賞 マット・ディロン
       ドン・チードル
 助演女優賞 タンディ・ニュートン
 監督賞(デヴィッド・リーン賞) ポール・ハギス
 オリジナル脚本賞 ポール・ハギス
          ボビー・モレスコ
 撮影賞 J・マイケル・ミューロー
 編集賞 ヒューズ・ウィンボーン
 音響賞

ヨーロッパ映画賞(2005年)
 インターナショナル(非ヨーロッパ)作品賞 ポール・ハギスアメリカ)

インディペンデント・スピリット賞(2005年)
 助演男優賞 マット・ディロン
 新人作品賞

放送映画批評家協会賞(2005年)
 作品賞
 助演男優賞 マット・ディロン
       テレンス・ハワード
 アンサンブル演技賞
 監督賞 ポール・ハギス
 脚本賞 ポール・ハギス
     ボビー・モレスコ

 公開されるや否や話題になった作品で、アカデミー賞でも、同系統と言えば同系統の映画である「ブロークバック・マウンテン」を押しのけて作品賞最有力と言われていたもの。強烈な差別映画で、スパイク・リーを大人しくした感じの色彩ではあるけれど、相当に誠実に作っていることは疑いようが無い。近年のアカデミー賞はなかなかいい作品を選んでいるような気がするけれど、その裏にあるのは何なのだろうか。随分暗い作品ばかり選ばれているような気がしないでもないけれど。
 この作品は粗筋を言うのが難しい。それは、誰もが主役であり脇役でもあるからである。犯罪の街ロサンジェルスでの日常を描いているに過ぎず、その中での「民族的な」衝突(クラッシュ)の様子を拾い集めたものと言える。恐らくロサンジェルスでは当たり前のことであろうが、その描き方は普通ではない。
 どの「民族」もキャラが立っている。一人として無駄な配置の人物はいない。話は伏線だらけであり、その全てが差別の様々な側面を切り出している。差別はまた被差別者自身の精神からも強固に構築されるという(ちょっと自分でいやになるくらい古い感じがするのだけれど)イデオロギーも惜しげも無く投入されている。あくまで差別を「民族」に絞ってることがまた映画としての成功に繋がったのだろう。長い間醸成されてきた(それはアメリカだけの問題に留まらない)差別の前では、どんな偽善も意味をなさない。しかし、どんな偽善でも、それがたとえ利己的な動機からであっても、小さな社会を動かすこともある。そんな積み重ねが共同体を作り、街を作っているのだ。些細な「クラッシュ」の積み重ねが、人々に、その街で「生きている」という感覚を逆説的に実感させている。それがどんなに理不尽なものであったとしても、それは紛れも無い事実なのであり、人々はそれを無意識のうちに受け入れているのだ。
 そうした前提の中で、一人の若者が銃弾に倒れるところに意味がある。この作品の中で本当の意味で死んでしまった人間は、たったの一人しかいない。彼はどこまでも生きていることを実感しようとしていた人間だった。彼の死はまた、皮肉にも母親や兄の生を証明する材料となる。多くの人間は誰かの死の上に、あるいは自分の死の上に生きているのかもしれない。
 自分を侮辱した警官に命を救われる女性、またかつて侮辱したことを知りながら命がけでその女性を救い出した警官。二人の内面を巡る葛藤。ここには、もう一つ、人々が「クラッシュ」していく大切な意味が隠されている。分かり合う、などという物わかりのいいことを言うつもりは毛頭ない。永遠に分かり合えないかもしれない関係の間に、一つのコミュニケーションが生じる瞬間に感動するのだ。
 話が妙にドラマチックになることも無く、その意味では「エレファント」を観たときのような感動があった。現実をきちんと見、考えている人間がいることを実感する。それを作品として多くの人に伝えようとする人間がいる。かなり勇気のいる設定であったと思うけれど、まずはこうして作品を撮ったことを讃えたい。
 音楽、撮り方ともに嫌味でなく、最後まで安心してみていられた。逆にもう少し遊びがあっても良かったと感じるくらい静かであったけれど、作品の性質上仕方ないことかもしれない。


 差別と名の付くものは、恐らくこの先も無くなることは無いであろう。しかし、どんな土台の上であってもいいから、何かしらコミュニケートできる基盤があるといい。それが「クラッシュ」という形であるかどうかはわからないけれど、それもまた一つの形であることは確かだ。
 リベラルであるとかトレランスであるとかいう以前に、コミュニケートできるという状態を鋭く逃さないでいることが大切なのかもしれない。

<補足作品情報>

上映時間:125分
製作国:アメリ
初公開年月:1994/04


監督:ジョナサン・デミ
製作:エドワード・サクソン
   ジョナサン・デミ
製作総指揮:ゲイリー・ゴーツマン
      ケネス・ウット
      ロン・ボズマン
脚本:ロン・ナイスワーナー
撮影:タク・フジモト
作詞作曲:ニール・ヤングphiladelphia
     ブルース・スプリングスティーン“Streets of Philadelphia
音楽:ハワード・ショア

 
出演:トム・ハンクス
   デンゼル・ワシントン
   ジェイソン・ロバーズ
   メアリー・スティーンバージェン
   アントニオ・バンデラス
   ジョアン・ウッドワード
   チャールズ・ネイピア
   ロバート・キャッスル
   ロジャー・コーマン
   ジョン・ベッドフォード・ロイド
   チャンドラ・ウィルソン
   ウォーレン・ミラー


受賞履歴:
アカデミー賞(1993年)
 主演男優賞 トム・ハンクス
 脚本賞 ロン・ナイスワーナー
 主題歌賞 ブルース・スプリングスティーン 作詞・作曲 Streets of Philadelphia
      ニール・ヤング 作詞・作曲 philadelphia
 メイクアップ賞 Carl Fullerton
         Alan D'Angerio
 
ベルリン国際映画祭(1994年)
 男優賞トム・ハンクス

ゴールデン・グローブ(1993年)
 男優賞(ドラマ) トム・ハンクス
 脚本賞 ロン・ナイスワーナー
 歌曲賞 ブルース・スプリングスティーン "Streets of Philadelphia"

英国アカデミー賞(1994年)
 オリジナル脚本賞 ロン・ナイスワーナー

MTVムービー・アワード(1994年)
 作品賞
 歌曲賞 ブルース・スプリングスティーン “Streets of Philadelphia
 男優賞 トム・ハンクス
 コンビ賞 デンゼル・ワシントン
      トム・ハンクス

 何となく名前は知っていたのだけれどどういう映画なのかよくわかっていなかった。トム・ハンクスが役作りのために激痩せまでした作品であり、彼の存在感が遺憾なく発揮されている。役作りのために激痩せだの激太りだのする映画は大抵重い。「モンスター」なんて正にその典型であった(と書きながら、「モンスター」のレビューを書いていないことに気付く。気が向いたらということで)。しかし、この作品にはそうした映画に見られるある種の「必死さ」のようなものがなくてよかった。安心して入り込むことができた。
 有能な弁護士のアンディは、同性愛者であり、かつHIVウィルスに体を蝕まれていた。彼は、不本意に思いながらもその事実を隠して仕事をこなしていたが、エイズの一症状であるカポジ肉腫の「アザ」をある同僚に見られ、その後解雇されてしまう。アンディは様々な疑惑から、自分がエイズに冒されており同性愛者であるから解雇されたと確信し、かつての同僚たちに対して訴訟を起こす決意をする。
 トム・ハンクス扮するアンディの役回りが非常に重要かつ重い。同性愛者を演じながら、エイズに体を蝕まれ死にゆく男をも演じなければならない。さらには、自らの正義を信じて権利に立ち向かおうとする男をも演じなければならない。こんなことができたのはトム・ハンクスしかいないのではないのかというくらいの演技であった。もちろんトム・ハンクスだけではない。激しいホモフォビア(同性愛嫌悪)を抱えた弁護士を演じるデンゼル・ワシントンも、アンディの恋人役を演じるアントニオ・バンデラスも、その他の脇役たちもがっちりと固めている。
 この映画の何がすごいと言えば、やはり公判の場面であろう。陪審員前で証言をする証言人の一人一人も、両者の弁護士の様子も、判事の様子も、何もかもが一つの社会を反映している。エイズ患者に近づくのを露骨に嫌がる、被告側の弁護士の様子など、笑えるくらい(もちろん笑ってなどいられないのだけれど)。口ではどれだけ偽善で飾っていても、結局みんな「一人の人間」なのである。少しの疲れがその人の本音を引き出す。その吐露が、表情が、非常に生々しくこの映画の中で表現されているのだ。それは被差別側にしても同じ。その状況に思わず涙が流れそうになる。涙を流そうとする自分は、まだセンチメンタルな現実に酔っているのかもしれない。そんなに客観的にいられるのだろうか、自分は。そんな自問自答さえも引き出される。
 基本的にこの監督は色々な部分を敢えて見せている。隠さない。答えも用意しない。有り得そうな事実を観る者に突きつけるだけ。


 結末で恐らく社会の意識は少しだけ変わっただろう。少しだけ。そこで一人の命が犠牲になったとしても。しかし、それが確実な変化であることを、きっと信じている。そうでなければこの映画は撮られなかった。

悲情城市 [DVD]

悲情城市 [DVD]

<補足作品情報>

上映時間:159分
製作国:台湾
初公開年月:1990/04


監督:ホウ・シャオシェン
脚本:ウー・ニェンツェン
   チュー・ティエンウェン
撮影:チェン・ホァイエン
音楽:立川直樹
   チャン・ホンイー
出演:トニー・レオン
   シン・シューフェン
   リー・ティエンルー
   チェン・ソンヨン
   カオ・ジエ


受賞履歴:
ヴェネチア国際映画祭(1989年)
 金獅子賞 ホウ・シャオシェン

インディペンデント・スピリット賞(1990年)
 外国映画賞 ホウ・シャオシェン(台湾)

 授業で全部観た。長い映画だったので消化不良に陥る。というか、やっぱり授業とかで映画を観ると集中できない。映画館に大人数で映画を観に行くときと同じ。ただ、授業のいいところはその直後に感想を話し合ったりしないこと。次の授業で討論をするらしいので、その討論が始まる前に書いておかないと書く気が失せそう(我ながら難しい性格)。
 台湾の歴史を背景としているので、粗筋についてはあまり説明しないこととします。とりあえず舞台となっているのは、終戦後から国民党政権ができるまでの4年間。とある街の林家の四兄弟、とりわけ四男の文清をとりまく様々な出来事を中心に話は展開される。台湾について意外に知らないことが多く、ある程度の背景知識が無いと、人物設定も複雑なので一発では理解できない。核となる数人の人物の関係と動向はわかっても、話の核心的な部分、監督の意図まで汲み取るには、細かなところまで読めないといけない。最近の映画の中では極めて難しい半ドキュメンタリー映画であると思う。
 恐らく主人公である文清は聾唖の青年であり、人との会話は全て筆談になる。内容はテロップで示され、これは恐らく伏線として、重要なメッセージの多くはテロップで示されることになる。正に彼の発言を利用したわかりやすい表現。かなりイデオロギカルである。それは、物語の後半で出てくる様々な辞世の言葉でも利用され、文清がそれを伝えて回るところに意味がある。「君は思うままに飛び去ってゆけ 俺も後からいくから 皆一緒だ」などなど。国民的な想いにあふれている。これは個人的な見解でしか無いけれど、文清が聾唖に設定されていたのは、文清を台湾のある種の象徴として表象しようとしたからではないだろうか。台湾の多くの人民は、自ら直接物事を知り、選択するのが困難であった。自ら伝えようとする時には、本当に不器用な表現でしか伝えることができなかった。監督の台湾に対する想いを、文清に仮託したと考えられる。
 中国に復帰したことで生じる様々矛盾が、映画の中で色々な形で描かれている。その一つ一つを監督は、静かでぶれの無い、引いた視点で撮っている。道理も通らない現在に対する憤り。
 話はどんどん不幸な方へと流れていく。それをどこまでも第三者的に追っていく。家族は皆バラバラになっていく。
 しかしそれでも、ある種の日常はどこまでも繰り返されているかのように見えるのだ。言葉も出来事も要らない。リアルなのはある日常だけ。また逆に、そうした日常が壊されないことを切実に願っているようにも見える。


 あまりに重く長い。観る者に相当の負担を強いることは間違いない。それでもなおこの映画はこうした形で撮られる意味があったのだろう。

「プラック・ダリア」

<補足映画情報>

上映時間:121分
製作国:アメリ
初公開年月:2006/10/14


監督:ブライアン・デ・パルマ
製作:ルディ・コーエン
   モシュ・ディアマント
   アート・リンソン
製作総指揮:ロルフ・ディール
      ダニー・ディムボート
      ジェームズ・B・ハリス
      ヘンリク・ヒュイッツ
      ジョセフ・ローテンシュレイガー
      アヴィ・ラーナー
      トレヴァー・ショート
      アンドレアス・ティースマイヤー
      ジョン・トンプソン
原作:ジェームズ・エルロイ『ブラック・ダリア』(文春文庫刊)
脚本:ジョシュ・フリードマン
撮影:ヴィルモス・ジグモンド
美術:ダンテ・フェレッティ
衣装:ジェニー・ビーヴァン
編集:ビル・パンコウ
音楽:マーク・アイシャム


出演:ジョシュ・ハートネット(バッキー・ブライカート)
   アーロン・エッカート(リー・ブランチャード)
   スカーレット・ヨハンソン(ケイ・レイク)
   ヒラリー・スワンク(マデリン・リンスコット)
   ミア・カーシュナー(エリザベス・ショート)
   リチャード・ブレイク
   ケヴィン・ダン
   マイケル・P・フラニガン
   ローズ・マッゴーワン
   マイク・スター
   フィオナ・ショウ
   パトリック・フィスクラー
   ジェームズ・オーティス
   ジョン・カヴァノー
   クローディア・カッツ

 現在上映中の映画についてはネタバレの危険性があるためあまり詳しくは書きません。一応more記法で書くので、続きを読みたくない人は続きを読まないようにしてください。
 個人的には、娼婦役のヒラリー・スワンクにびっくりしてしまいました。というか、今名前を調べていてビックリしちゃいました。「ミリオンダラー・ベイビー」を観たばっかりなので、これがあれと同一人物かよと。世の中恐ろしいです。
 ボクサーだった二人の刑事、バッキーとリーはタッグを組んであるヤマを追っていた。しかし、その途中で体をまっぷたつに切られた女性の死体が発見されたことから、徐々にリーの様子がおかしくなっていく。彼は女性の死体の事件に没頭するようになり、見境の無い行動もとるようになる。命を助けてもらった義理から期限を設けてリーに協力するバッキーだったが、事態は思わぬ方向へと転がっていくことになる・・・。

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