駄文

 柿ピーを食べながら珈琲を飲んでいたら、舌を火傷していることに気付いた。それくらい鈍感になっていた今日、今までの時間。
 フッサールによると、人は、過去把持と未来予持をすることによって、現在という原印象を形成するらしい。時間という概念は云々、という前に、僕という実存はそのことをとても深い実感として感じることができる。去年があって来年があるから、今年という年を感じられる。昨日があって明日があるから、今日という日を感じられる。一時間前があって一時間後があるから、今という時間を感じられる。
 僕はふとパソコンのディスプレイ右上に表示された時間を見る。パソコンの前に座っている限り、何度でも確かめるその時間。見る度に、10分前は何をしていたっけと思う。そして、10分後に何をしようと思う。結局僕はその連続の中で、珈琲を一口飲むくらいのことしかしない。その積み重ね。
 一時間前にはご飯を食べていた。一時間後には床に入っているだろう。では今は何をするべきだろう。そんなことは、考え始めるとだめなのだ。流れていく連続の中で、反省すること無く自然と動く、ということが阻害されてしまう。反省、内省を始めると、手が止まり、足が止まる。時の流れを感じ始める。今の自分が不透明化する。そうなると、僕は珈琲を一口飲むくらいのことしかできなくなる。


 という、大いなる言い訳。

実は

 タバコを喫み始めてみました。とは言っても、苛々してるとかそういうことではなくて、タバコを吸う人のことはタバコを吸ってみないと分からない、ということで、単なるファッションというか、好奇心です。というわけで、吸っても一日に一本。こういう好奇心行動を自分は結構します。もちろん、中毒になる気は毛頭ありません。人前で吸うつもりもあんまりありません。そんなことしていたら、声も出なくなるし、いいことは何も無いと思うので。
 喫み始めて思ったのは、やはりこれは「麻薬」だな、ということ。何か感覚が飛んでいくようなところがあって、酒を飲んだ時にちょっと似ている。常習しているとその感覚さえも忘れてしまって、もっともっとと思うかもしれない。
 タバコはある種、了解めいたところもあるような。タバコを吸うというだけで、あるコミュニティーに入り込めるようになったりする。具体的にそういうことをはっきりと経験したわけではないけれど、ためしに人前で吸ってみたら話す内容が微妙に変わったような。


 こんな実験してて体壊さないように気をつけないといかんですよね。好奇心は猫をも殺すか。

日本舞踊と身体

 今日舞踏の授業に、花柳流の花柳基氏がやってきた講義をした。能狂言は観たことあるくせに、実は歌舞伎を観たことが無く、当然(と言ってしまうと語弊があるかもしれないけれど)日本舞踊も観たことが無かった。というわけで、もうのっけから興味津々でした。
 敢えて詳細を記述することは避けますが、色々思ったことをメモ書き程度に。


 日本人の身体は、正座や安座に適していたらしい。故に、今のおばあちゃん年代より前の人たちは、イスに座っても正座してしまうことの方が多かったそうだ。その方が楽だから。むしろイスに座ると疲れてしまう。そして、座るにしても歩くにしてもどこか腰、正中線に重心があって、基本的に姿勢は低い。いわゆるきれいな姿勢というやつです。これが、イスに座ると姿勢が悪くなってしまう。日本人は、正座の座り方は知っていても、イスの座り方を知らないので、適当に座ってしまう。イスに座って作業をするにもその姿勢が分かっていないため、さらに姿勢が悪くなってしまう。イスにきれいに座ろうとすると疲れたりしませんか?
 僕の身体は、基本的には剣道で形成されて、それが狂言に受け継がれた形になっている(なんのこっちゃ)。地べたに座ることが慣れているし、素足もしくはそれに準ずる形でいる方が心地よい。しかし、家でも学校でも大体はイスで生活することが多く、結果としてはほぼ姿勢が悪い。歩いているときだけ妙に姿勢がよかったりする。
 という話は実はどうでもよいのだけれど、ここで重要なのは、美しい姿勢でいると、少しの動作も大きなものとして知覚することができるということ。能狂言でもそうだけれど、日本舞踊はさらにそれが重要だと感じた。指の先までの繊細な動きを表現するためには、まず姿勢が美しくなければならない。そうでなければ、小さな動きは全て姿勢に吸収されてしまって表出することができない。舞踊の動きは体の内部での動き、という表現もしていたけれど、そうした動きが可能であり、かつそうした動きを見せしめることが可能なのは、姿勢のおかげと言えるのでしょう。


 それで、基さんの動きはどうであったか。これがもうとんでもなく美しい。繊細なのです。動きの間はもちろんのこと、所作の一つ一つがすごくはっきり見えてくる。この姿勢は、長い間の蓄積なのだろうなと思った。
 そして、もう一つ重要なのはおそらく呼吸。基さんは、舞い踊っているとき、まるで息を止めているように見える。それだけ息を詰めているということだろうし、また呼吸が完全に動きと連動しているということなのでしょう。動きの中に呼吸が内在している。簡単なように聞こえるけれど、これはなかなかできないことです。
 圧巻なのは、「八島」(屋島?)を舞っている時にも全く乱れなかったこと。舞い終わった後でさえ乱れていない。能楽師は舞いながら乱れている人も多いけれど、この人は呼吸が完全に「仕草」になってしまっていて、その存在を忘れてしまう。


 日本舞踊に俄然興味を抱いてしまった。

デュルケムの「自殺論」について思い巡らす

 「自殺は、個人の属している社会集団の統合の強さに反比例して増減する」という一般法則を「発見」したところが、デュルケムの偉いところらしい。この点については、僕が「自殺論」そのものを読んだわけではないということもあって、特に反論は出来ない。それについていくつかの考察を行なっていることは確かで、デュルケムのこの仕事は評価に値するでしょう。


 しかし、いくつか腑に落ちない点はある。
1、統計の取り方が恣意的ではないか。
2、宗教、家族、政治の話を統一的に語ってよいのか。
3、家族についての考察が甘くないか。
4、「社会統合」「社会的連帯」の定義が難しい。
 以下、これらについて詳しく述べてみます。


1、統計の取り方が恣意的ではないか。
 いくつかの、自殺についての統計がある。彼はそれらを引き合いに出しながら、ある宗教とある宗教、ある家族構成とある家族構成、ある政治状況とある政治状況とを比較し、そこに見られる「差」を説明しようとしている。
 しかし、本当に差が存在しているのだろうか。数値はおよそ100万対やせいぜい1万対で、そこで見られる100の差など、比率的には小さいものである。サンプリングされている年代も10年以内に限られていたりして、もっと長いスパンで平均を取ってみたら潰せるくらいの差かもしれない。人一人の命は大きいから、10でも違えば大事だ、という議論なのだとしたら、表現として「自殺率」という言葉を使うのはナンセンスに思える。
 そして、より母体を大きくして平均をとった場合の数値を引き合いに出して、彼は、各社会は固有の自殺率を持っている、と結論付けている。その一方で、家族構成別、宗教別に統計を組み替えると差が見えてくるということをしている。これは、統計のマジックのようだ。上で「各社会」と言った場合、彼はどのような社会を想定しているのだろうか。いまいち曖昧で分かりづらい。
 しかも、「子供がいるという状態」や「家族の成員」のようなものが、具体的にどのようなものを想定しているのかも分かりづらい。


2、宗教、家族、政治の話を統一的に語ってよいのか。
 結論として、彼は宗教、家族、政治社会の統合の強さと自殺率の相関に着目し、そこに一般的な法則を見出したとする。それは、宗教にしても、家族にしても、政治にしても、それが自殺率を低める要因となるのは、個々の成員の諸活動が共通の目標へと集中されることによって、社会的連帯が強固になるときであるから、結果的に、自殺率を決定する要因は社会集団の統合の強さではないか、という考えからくる(一文が長い)。つまり、個人が社会と連続した状態になれれば、自殺は減るということだ。
 しかし、宗教社会、家族社会、政治社会それぞれは、異なる成員、異なるシステムを措定していると考えられる。また、それらの社会は、世界全体(仮にそういう表現が許されるとしたら、だけれど)と、異なる仕方で関わっていると考えられる。であるから、デュルケムが、「自殺は、個人の属している社会集団の統合の強さに反比例して増減する」と語る時、その社会集団とは何を想定しているのかが問題となる。もし世界全体の社会としているなら間違いであるが、おそらく彼の口ぶりからしてそう考えてはいない。だとするとそれぞれの社会ということになるけれど、その場合は「一般的法則」と言ってしまうと語弊が出てくる。あくまで「個人の属している」社会集団なのであって、その限りにおいて個別的に分析しなければいけないのではなかろうか。
 ということは、きっとどこかの頭のいい人が既に言っているのでしょうね〜。


3、家族についての考察が甘くないか。
 宗教、家族、政治の中で、僕は家族についてが一番納得できていない。ただ理解できていないだけかもしれないけれど。
 一番納得できないのは、「家族」というものと、「結婚」「子供」ということを同一化している点。家族の成員というものも問題になっているけれど、具体的にどのようなものを想定しているのか。子供がいる家族が一番自殺率が低く、ついで結婚している者、やもめの者、そして一番自殺率が高いのが未婚者である。未婚者にもいろいろな種類の人間がいる。病気を患っている者、貧乏な者、セクシャルマイノリティーの者、離婚した者、などなど。それらは個別に事情を抱えており、またその違いは重大である可能性も高く、同じカテゴリーとして分析するのはいささか問題がある気がする。そして、未婚であっても「家族」を持っている場合は当然ある。それは内縁であったり、同棲であったり、また親や親戚、友達などと住んでいる場合もあるだろう。おそらく、デュルケムの想定している「家族」は、結婚する男女を核とする世帯のことだろう。しかし、本当にそう限定して分析してしまっていいのだろうか。
 自殺抑止作用の源泉となるのは、前提として、「共通の信念・感情の交流」である。それは、必ずしも結婚した男女の間でのみ生まれるわけではないことは、皮肉にも彼自身の統計が物語っている。彼はもちろんそのことについても考察しているわけだけれど、「家族」は思いのほか複雑で扱いづらい概念なのかもしれない。


4、「社会統合」「社会的連帯」の定義が難しい。
 これはもうそのままで、僕の頭ではこの用語の定義がうまく咀嚼できない。社会とは何か、統合とは何か、というところから既に疑問である。
 デュルケムの考察から考えてみると、「社会」は、個々人の行為を安定的に位置づける、全体的な意味連関のことであると思われる。それはそのまま、個人の行為準則となる。それがその成員それぞれの精神の中に内在化されることによって、個々人は日常世界を一層自明視するようになり、行為に対していちいち確認や反省(これは動揺や存在不安を招く種類のものとされる)をする必要が無くなるため、自然的態度をとるようになる。つまり、「統合」されるということだろう。「全体的な意味連関」はそのまま、「社会的連帯」にもなる。それらが強固になるほど、個人は自分の行為の拠って立つ意味をいつでも苦労せず参照することができるようになる。
 しかし、連帯の強さというものはどのように測るのだろうか。2の疑問にも通ずるけれど、拠って立つ意味連関によっては尺度が異なる可能性も十分に考えられる。それに、ここでは宗教、家族、政治を挙げているけれど、それだけが拠って立つ意味だろうか。政治については政変と戦争を挙げていることからも分かるように、ここでは法律や制度の問題、社会的慣習の問題は捨象されているように思われてならない。彼は何をもって、「社会的連帯」と言ったのか。やはり曖昧ではなかろうか。


 以上の流れとは少々ずれるかもしれないけれど、僕自身がやや哲学的に考えてみた「連帯」について、少し言及してみたいと思う。
 まず、個人は一実存である。実存とは、個人の「生きる」状態そのものであるが、その実存は、「社会的実存」のようなものに内包されている、もしくは接続されて、意味を与えられていると考えられる。
 個人は、私的利害から行為を規定することも可能であろう。しかし、それが実存の内部で意味あるものとして認められるためには、他者からの承認が必要となる。なぜなら、行為の結果は何者かに作用して初めて、感じられるからである。そう考えれば、個々人は、個人主義的状況を、ある「社会的実存」の成員同士で相互的に確認しあい、承認しあうことで、世界、共通の地平へと接続されるのではなかろうか。
 この「社会的実存」は、人によって、「システム」とか「階層」とか色々な名前で呼ばれているものだろう。
 「社会的実存」の内容、外形がはっきりしていればいるほど、それの内包している意味は、確固たるものとなるだろう。そうすればそれだけ、個人は自己の実存を揺るがされる不安から解放される。

 もっとも、たいていの場合、全く「社会的実存」を感じられないという状況は、起こりにくいと考えられる。なぜなら、個人は多くの「社会的実存」と接続されているからである。であるから、多かれ少なかれ、何かしらの「社会的実存」は個人を意味づけていると実感できる。ただ、その個人の実存にとって根源的かどうかによって、それに接続する意味、パワーが大きく変わってくる。例えばそれは信仰であったり、セクシャリティであったり、国家であったり。実存にとって根源的な「社会的実存」に、何事かクリティカルなことが起こった時、実存そのものも大きく揺さぶられ、存在不安に陥る。それがどうしようもなくなった時、人は死に至るのではなかろうか。


 最近の報道で「自殺者数が増えた」というような話が出てくるけれど、おそらくその表現は正確ではない。全体的な統計を見れば、デュルケムの言うように、「各社会は固有の自殺率を持っている」わけであるから、おそらく大きな変化は無いはずである。問題となるのは、メディアが報道する内容において、何が重要な「社会的実存」としてとりあげられているのか、ということであり、そこで規定される集団の統計なのである。


 書きすぎて疲れた。長い詭弁。


 今日は、講演に使えるように大きなスピーカをつけた講堂で、授業を受けた。おそらく座る席が悪くて、スピーカの発する高周波音と低周波音を耳が拾ってしまい、気分が悪くなって途中退室。
 絶対音の研究をしている弊害。まったくもー。

ブラウザ

 日常的なことも書いてみよう。あまりプライベートなことは書きたくないので、プライベートすぎないことについて何かしら有用なことがあった場合にこのカテゴリを使います。


 最近、暫く使っていたFireFoxの調子がどうにも悪く、しょっちゅう落ちるし、動画を観ようとして妙にフリーズするし、YOUTUBEやGUBAなどのコンテンツサービスがうまく利用できないし、ページ間の推移がスムーズでないし、と色々と不便さを感じていた。
 何かいいものは無いかしらと今日少し探してみたら、なかなか素敵なものを発見した。
 恐らくWindowsユーザが多いと思うから紹介してもあまり意味は無いと思うけれど、http://jp.caminobrowser.org/というもの。Mac OS Xに特化したブラウザで、様々な機能がOSとリンクしている。ページの表示も早いし、インタフェースもすっきりとした感じで、とりあえずのところ気に入っています。基本的な使い勝手はFireFoxとそう大差無いのも嬉しい。


 本当は、自分でカスタマイズができるSleipnirに目をつけていたのだけれど、恐らくこれはMacに対応していない。これ以外のことでも何かと不便を感じることが多いので、MacWindowsを実装できるようにそのうちしたいと思う(Virtual PCではなくて)。基本的にはMac使いでいたいし。あるいは、Windowsのノートもしくはデスクトップを一台持っていてもいいかも。その前にMacのノートが欲しいんだけど。さらにそれ以前に、プリンタもスキャナも無いのは問題だ。いつまでも学校でプリントアウトできるわけじゃないし。


 それにしても、部屋が寒い。

散歩

 50音エッセイ。ある日の散歩を巡るお話を一部創作で。登場人物は「僕」とその友達の「木村」。もちろん架空の人物。イメージは深夜のラジオドラマ。


 僕はその日、新宿で木村と飲んでいた。最近はよくそういうことがある。何とはなしに急に誘われて、夜も遅くなった時間から飲み始める。大抵の場合、呼び出した彼は既に他のお店で一杯引っ掛けていたりして、僕には頑張っても追いつけないくらいにぐだぐだに酔っ払ってしまっている。彼は酔っ払うと、僕のことを意味も無くはたいて、どうでもいいことで大声で笑う。昔はそういう人と杯を交わすのが酷く苦手であったけれど、彼のおかげなのかなんなのか、最近では寧ろ面白がれるようにすらなった。
 木村は中野に住んでいる。いつものことだけれど、彼は、僕を呼び出した時と同じように急に、帰る、と言い出す。電車は既に終わってしまっているので、タクシーで。酔っ払った彼が、僕を連れて帰るという考えに至ることはまず無い。かと言って、僕も彼を引き連れてうちまで「お守り」するのはごめんなので、タクシーを捕まえるところまでしか相手をしない。「いつも悪いねえ。今日も楽しかったなあ。また飲むぞお」と、木村は去り際に必ず言う。「ああ、また飲もうね」と僕は言って、タクシーのドアを閉める。


 いつもなら、そこから別の店に移動して始発が動くまで待つか、新宿に住んでいる友達に連絡してその家まで行くかするのだけれど、その日は何故か歩きたい気分になった。空には雲一つ無いようで、異様に明るい新宿の空なのに、月も星も見える。家まで帰る道はすぐに頭に浮かんだ。今の時間は午前2時。ゆっくり歩いても5時にはうちに着ける。
 そうして、僕は夜の散歩をすることになった。
 新宿通りを歩いて四ッ谷方面に向かうと、道を走る車も少なくなって、人影がなくなってきた。どこかで飲んできて仲間同士で騒ぐ若者やサラリーマンが、田舎道の街灯のようにてんてんと存在するだけだった。
 四ッ谷にたどり着き、外堀の公園に入ると、急に自分が一人で歩いていることを実感した。ポータブルプレイヤーは電池が切れてしまって、聞こえてくるのは辺りの音だけ。電車も動いておらず車も通らないため、外堀の水の流れや周囲の木々のざわめきが、嫌という程耳をくすぐった。東京という街の中で、誰にも邪魔されることなく、ただ一人で道と戯れている。そう思ったとき、自分でも不思議な程に気分が解放されて、気付いたら大声で歌い出していた。誰もがそうだとは言わないけれど、解放されるとやはり歌いたくなるものなのだろうか。誰かが聞いていたらどうしようとか、そのような心配はもはや頭の片隅にもなかった。寧ろ誰か一緒に歌って欲しいと思ったくらいだ。
 三曲くらい歌ったところで飯田橋駅の灯りが見えてきた。車の通りが増えて急に恥ずかしさがこみ上げ、僕は歌うのを止めてしまった。時々前の方から人が走ってきた。彼らはいつも深夜に、ここら辺一帯をマラソンするのだろうか。そこで僕はふと立ち止まって考える。時間は既に3時を回っていた。走っている人たち、車を運転する人たち、ビルの一室で灯りをつけている人たち、駅で始発が動くのを待つ人たち……。彼らは、数時間後に、どのような新しい一日を迎えるのだろうか。今、僕「たち」は、この静かな夜の時間を飯田橋周辺で共有している。みな、一様にどこか疲れたような表情をしている。きっと、暫くしたら彼らは別々の場所で眠るだろう。それぞれの思いを抱きながら。次起き上がった時には、飯田橋で共有していた時間など忘れて、それぞれの新しい一日を生きていく。でもそれには、僅かながらでも飯田橋の時間が関係してくるだろう。僕だって、こうして散歩しようと思わなければこの飯田橋体験をすることは無かったわけで、そうしたら、次の日はまた少し違った一日になっていたかもしれない。
 そうこうしているうちに、後楽園に着いた。当たり前だけれど、ドームホテルも後楽園遊園地も、過去の遺物のように静まり返っていた。それらはまだ、昨日の出来事を物語っているだけであった。しかしこれもまた、あと数時間したら、新しい一日の物語を話し始める。普段なら何とも思わないようなことなのに、その時の僕はそのことがとんでもなく不思議なことのように感じた。僕はただ散歩の道すがらその近くを通っただけであるけれど、その一瞬にその場所が語っている物語と、別の瞬間にその場所が語っている物語は違うのだ。だとすれば、僕の方でも、毎回同じような気分で散歩していては面白くない。今はどんなお話を聞かせてくれるのか、これから散歩する時には、そうして耳を傾けることにしよう。
 長い坂を上がり、本郷に着いた。学校もまた、昼間とも夜とも違う顔を見せていた。普段あれだけ人がいるのが面倒と思う学校も、こう人も何もないところを見ると、人が往来してこその学校かと思いたくなってくる。時間は既に4時を回っている。早朝にマラソンや散歩をする人たちに混ざって、言うことを聞かなくなりそうになっている足に鞭打ちながら、僕は歩いている。ふと、体は非常に疲れているはずなのに、気分が妙に爽やかになっていくのを感じた。空気はもう新しい朝の味を感じさせ始めている。昨日の昼、部屋の掃除をしたことを思い出した。少しきれいになった部屋で、僕にはたくさん、できることがあるのだということを思った。朝の空気を吸い、散歩に出かけることを日課にしようと思った。最近僕が妙に疲れて感じていたのは、こうした種類の爽やかさ、清々しさのようなものを、忘れていたからではなかったのか。夜眠る時にその日一日のことを思うのと同じように、朝起きた時、新しく始まる一日のことを思う時間を、僕はすっかり忘れてしまっていた。


 僕は家まで一人で歩き続けていた。しかし、本当に散歩をするなら、決して一人になることは無いのだなと思った。3時間余りの間、僕はずっと街と、そこを行き交う人々と会話し続けていたのだから。
 そして、たくさんのお話を胸に、白み始めた空を見ながら、僕は眠りに就いた。

ワインコンクール

 50音エッセイ。あいうえお順で書いていこうとするとなかなかネタが上がらないので、思いついた順に書きたいと思う。


 何かを飲みたいけれど、チューハイやビールのような炭酸系が飲みたくない、という時、僕は大抵ワインを購入する。これだと4日は飲めるし、健康にもいい。おまけに、極安ワインでなければ悪酔いもしない。これが日本酒だと飲み過ぎて二日酔いの危険性があるし、焼酎だと氷を準備したりお湯を沸かしたりするのがめんどくさい*1
 そんなこんなで、昨日、近所の酒屋まで足を運んでみた。


 しかし、財政的にそんなに余裕があるわけではないので、買おうにも、いかにもおいしそうなワインは買えない。ウィスキーにも目を配ってみたけれど、どれもいい値段。これはどうしようかと考えあぐねていると、「金賞」の文字が目に入ってきた。値段は1000円でお手頃。ただし、コート・デュ・タルンとあまり耳にしない産地のもので、いかがわしい。
 暫く逡巡してみた後、結局これを購入してみることにした。腐ってもフランスワイン。一応「金賞」らしいし、大丈夫だろうと。


 その考えは甘かった。飲み口は辛口の赤ワインで嫌いではないけれど、後味が殆ど無く、むしろブドウのちりちりとした酸っぱさだけが残って気持ち悪い。まずくはないけれど、何というか、やり場に困る味である。
 よく知らないのでワインコンクールについて調べてみると、ワインコンクールは世界中の様々なところで数多く行なわれているらしい。しかもコンクールによっては金賞を10も20も出す。言ってしまえばお祭りのようなもの。確かに、よく見ると「金賞」としか書かれておらず、何のコンクールなのか明記もされていない。
 ソムリエは、こうした事情をよく知っているので、「金賞」を受賞しているというだけでそのワインを薦めることは決して無い。金賞ワインの中にはもちろんいいものもあるだろうけれど、それはソムリエの舌によって選ばれ、ソムリエ付きのお店やレストランに並べられることの決まったものなのだ。金賞云々以前に、ソムリエの力である。


 こういうことは、ワインでなくてもよくあることのような気がする。何となく良さそうな看板に乗ってみたけれど、蓋を開けてみたら何と言うことは無かった、ということ。看板自体には嘘は無い。それに呼ばれてふらふらとくっついていってしまうのは、自分の心である。一度は騙されてみてもいい、と口で言うのは簡単だけれど、その一度が酷いしっぺ返しだったらどうしようもない。それこそ、やり場に困る苦味である。
 人間関係にしてもそうかもしれない。写真や第一印象、表向きの語り口だけに、その人の全部が表れるわけではない。もちろん一部は表現されるし、それは一つの真実に違いない。ただ、それが思いの外重要な印象となって心の底に焦げ付いてしまうことは、誰しも経験したことがあることではなかろうか。最初から全開で向かえる人なんて、そういるものではない。しかし、それを何となくわかっていても、どこかで人は、第一印象、わかりやすい「看板」に固執して、勝手に傷ついてみたりするのだ。


 人間には、「世間の目」というコンクールがある。時々自分のものであるかのように勘違いして、そのコンクールの評価に泳いでしまうこともある。しかし、「自分の目」というソムリエがいるのならば、彼らはきっと、本当に素敵な味を教えてくれるはずである。
 どうせなら、おいしいワインを飲もう。少し時間がかかることや、我慢しなければいけないことがあったとしても、味を知ることのできた喜びを感じたいから。

*1:ただし、寒さが厳しくなるとお湯割りはとても温まる